2020年に入ってすぐ、我が家では一大イベントがあった。
30年以上腎臓が悪かった父が、母から腎臓を1つ譲り受けた。腎臓移植だ。
そもそも父、40まで生きられないかも?と言われていたらしい。
その後も40歳までは無事生き延びたとはいえ、いよいよ50歳ぐらいからは透析が必要かも・・と言われながらも騙し騙しそれから20年も透析なしで生きてきた。
ちょうど5年前ぐらいから父の実家の旅館を任されて、東京の自分の会社と山梨の旅館とを往復する日々が始まり、一般的にリタイアする年齢からまさかの「人生で一番忙しい時期」が始まってしまった。
2つも会社を経営していったり来たりしていれば、ただでさえ身体に堪える。
そんな折、いよいよ透析が必要・・という状況になり、母の腎臓を1つ父に移植するという話がでた。
適合のための検査などが着々とはじまり、いよいよ移植が現実味を帯びると共に、家族の中でドナーとなる母への接待が始まった。
母が行きたい、やりたいという事にはNOと言わないのはもちろんだが、結婚記念日に家族で食事に行ったときに父が母と結婚した年のヴィンテージワインを用意していたのは驚いた。
気の利いた事をあまりしない不器用な父なので、母は驚きすぎて反応が悪かった。
あぁ父も感謝してるんだな・・と思ったと同時に、いよいよ手術が近づいていると思わざるおえなかった。
私はいつからか「人は今世の役目が終わったら死ぬ」と思ってる節があり、なんのかんの生き延びている人は「まだやらなければいけないこと、やり残した課題がある」と思ってる。
つまり「生きている」のではなく、「生かされている」のだ。
そんな思いでいたので、父がまだこの世に課題があるのなら、手術は絶対に成功するだろうと気楽に構えていた。
それなのに手術前日、医師から家族への最終説明を聞いた帰り道、怖くてふるえて、涙が急に溢れてきた。
一人っ子で独身の私。母も父も同時に手術に入ってもしなにかがあれば私は近しい親類を一気に失う事になる。
手術当日の朝、二人は自分で歩いて手術室に向かっていった。
先にドナーとなる母から、30分後に父が。
3時間ぐらいと言われていたのになかなか戻ってこず、心配し始めた矢先4時間弱ぐらいで母が帰還。
そのあと1時間ほどで父も集中治療室に帰還。
手術は無事に終わった。
現在は母も父も無事退院し、拒絶反応も出ず経過も順調らしい。
人間の身体とはすごいもので腎臓を1つ取り出した母は、1/2になり、本来の50%の機能しかなくなると思いきや、残された1つががんばって、一般的には実に70%まで機能を上げてくるらしい。
一方父の方も、私はてっきり「入れ替える」のかと思ったら、1つ腎臓を足す「追い腎臓」らしく、なんと腎臓3つとなった。
もともとの腎臓は収縮し徐々に機能を失うらしい。なんという神秘!!
移植手術は東京女子医大で行ったが、これがまた奇遇というか、実は父のいとこ(医者)が腎臓外科医と結婚し長年東京女子医大の一線で活躍していた縁があった。
彼はもう引退しているが、手術当日は執刀医と共に手術室に入ってくれていたらしい。
「私は強運」といつも思いこんでいるが、こうはたから見ると父の方がよっぽど強運である。
一般に「運がいい」というと「悪い事が一切起きない」と思う人がいるが、そういうわけではない。
実は、試練や不運もたくさんある。ただ、なぜか「万策尽きてもはやここまでか?」というときに助けが入ったり、腹をくくった瞬間に別の道が開けたりする。
後から振り返れば、「あの時が転機」と話せる事も渦中は本当につらい想いをしていることも多い。
今回も、若いころから腎臓が悪いという不運と共に生きてきたが、親族に腎臓外科医がいるという運はもっている。笹本家はいつもこんな感じなのである。
手術の前日、可愛がっている弟分に「両親の手術、急に怖くなった」と連絡したら「なんかその手術、究極の愛の形だね・・」と返ってきた。
父が手術を終えた日、集中治療室で身体中にたくさん管をつけたまま母に
「ママ~本当にありがとう。明日会おうね」
とビデオレターを送った。
翌日父が集中治療室から自分の病室に帰ってきて、話している時も「本当にありがたい」と急に泣き出した。
考えてみたら、もともとは他人である一人の男と結婚して連れ添って、最終的に彼に自分の身体の一部を譲り、「健康に生きる時間」という延命を授けるのは確かにすごいことである。
さらにもっと大きく考えれば、最初父の両親は結婚する前、母をそこまで歓迎していなかったらしいし、父はとてもモテる人だったので、周りには父と結婚したかった女性もたくさんいたであろう中、「絶対にこの人がいい」と強い意志で母と結婚した父の強運はここでも発動していたような気がする。
運と縁、そして愛。
それはここ1ヶ月ぐらい、私が両親の手術を通してずっと考えていた事である。